寿司職人が何年も修行するのは、バカなのか?

寿司職人が何年も修行するのは、バカなのか?

こんにちは。トゥモローこと、橋口友比古です。

少し前ですが、ホリエモンがTwitterで、
「寿司職人が何年も修行するのはバカ」
と発言して、炎上しましたよね。

今では寿司を握るのに、
半年もあれば技術を習得できる、
というのを根拠にして、
「卵焼き3年」と言われてるあの世界を、
ナンセンスだと発言したわけです。
ホリエモン

これについてみなさん、
どう思いますか??

ボクはこの発言、
ヘンテコな意見だなあと思っています。

なぜかというと、
お寿司屋さんが提供しているのは、

「うまい寿司」だけでなく、
『寿司屋に行くという体験』でもあるからです。

ボクが小学5年生のとき、
父に連れられて、お寿司屋さんに、
食べに行った時のこと。

父が、カウンターの向こう側の、
若い職人さんに、
「シメサバちょうだい」
「マグロちょうだい」
と注文をしているのを見て、
ボクも何の気なしに、
「たまごちょうだい」
と言ったんですね。
(たまごってあたりが、かわいいけどね。笑)

すると、すかさず父は、
「お前が、自分でお金を払えるようになったら、
『ちょうだい』と言ってもいい。
でも、それまでは『ください』と言え」
とボクを注意しました。

もちろん職人さんは、
不満を口に出してはいなかったのですが、
父は、「寿司屋独特の世界観」、
『職人さんに対する、リスペクト』を、
教えたかったんだと思うのです。
トゥモさん

父のそのときの口調は、
決して強いものではなく、
「教える」「諭す」というものでしたが、
ボクはそのとき、
「失敗をしてしまった」と思いました。

『自分は、場違いである』というのを、
強く感じ取って、
居心地が悪くなったのを覚えています。

それ以来、
「寿司を食べに行く」と言われると、
『回転寿司がいい』と言うようになりました。笑

時が経って、ボクもいま35歳。

今では回転寿司よりも、
カウンターで食べるお寿司に、
何倍もの価値・魅力を感じます。
それは回転寿司よりも、
カウンターの寿司のほうがおいしい、
というのも、もちろんあります。

ですが、それ以上に、
ボクがカウンターの寿司屋に行きたくなるのは、
「寿司屋のカウンターで、寿司を食っている自分」に、
憧れているからです。

寿司屋に「値する」自分、
『一人前になれた』気がするからです。

この「気がする」というのは、
お寿司屋さんがただ単に、

×「うまい寿司を提供すれば手に入るもの」

ではないんですよね。

寿司屋独特の世界観、緊張感からしか、
得られないものです。

ではその寿司屋独特の世界観は、
どこから来るのか?

それは『師弟関係』から来ます。

ボクは、
ホリエモンが否定しているところの、
「何年も修行すること(=師弟関係)」が、
お寿司屋さんの「『価値』を担保している」と、
考えているわけです。
トゥモさん

ホリエモンは、
寿司の技術の伝承を、
もっと効率的にやれ、ということを言っています。

しかし、「師弟関係」と「効率」は、
共存しません。

内田樹さんは、著書「日本辺境論」の中で、
「師弟関係」について、
詳しい考察を書いてます。

ちょっと長いですが、
重要な知見なので、
がんばってついてきてください。

<引用ここから>
==========
聖書に「ヨブ記」という話があります。
篤信の人ヨブが突然、何の理由もなく、不幸のどん底に陥り、
財産を失い、家族を失い、業病に取り憑かれ、
ついに点を呪うに至る・・・・という話です。

ヨブはこう呼ばわります。
「私に教えよ。そうすれば、私は黙ろう。私がどんなあやまちを犯したか。」
「私の目はこれをことごとく見た。私の耳はこれを聞いて悟った。」
自分は悪いことを何一つしていない。
だから、この罰は不当である。これを義とすることはできない。
ヨブはそう言い張ります。

それに対して神の言葉が下ります。
「わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
わたしが地の基(もとい)を定めたとき、あなたはどこにいたのか。」
「あなたは海の源まで行ったことがあるのか。あなたは死の影の門を見たことがあるのか。
あなたは地の広さを見きわめたことがあるのか。そのすべてを知っているなら、告げてみよ。」

自分の存在の起源について人間は語ることができません。
空間がどこから始まり、終わるのか、
時間がどこで始まり、終わるのか。

私たちがその中で生き死にしている制度は、
言語も、家族も、交換も、貨幣も、欲望も、その起源を私たちは知りません。
私たちはすでにルールが決められ、すでにゲームの始まっている競技場に、
後から、プレイヤーとして加わっています。

私たちはそのゲームのルールを、ゲームをすることを通じて学ぶしかない。
ゲームのルールがわかるまで忍耐強く待つしかない。
そういう仕方で人間はこの世界に関わっている。

それが人間は、本態的にこの世界に対して『遅れている』ということです。
それが「ヨブ記」の、広くはユダヤ教の教えです。

ふつうの欧米の人はこういう考え方をしません。
過ちを犯したので処罰され、善行をなしたので報酬を受けるというのは合理的である。
けれども、処罰と報酬の基準が開示されておらず、
下された処罰や報酬の基準は人知を超えていると言うような物語をうまく呑み込むことができない。

(中略)

努力とその報酬の間の相関を予見しないこと。
努力を始める前に、その報酬についての一覧的開示を要求しないこと。

こういう努力をしたら、その引き換えに、どういう「いいこと」があるのですかと尋ねないこと。
これはこれまでの著書でも繰り返し申し上げて来た通り、「学び」の基本です。

(中略)

これまで教育論で何度も引きましたけれど、
太公望の武略奥義の伝授についてのエピソードが、
『鞍馬天狗』と『張良』という能楽の二曲に採録されています。

張良(ちょうりょう)というのは
劉邦の股肱の臣(ここうのしん)として
漢の建国に功績のあった武人です。
秦の始皇帝の暗殺に失敗して亡命中に、黄石公(こうせきこう)老人に会い、
太公望の兵法を教授してもらうことになります。

ところが、老人は何も教えてくれない。
ある日、路上で出会うと、馬上の黄石公が
左足に履いていた靴を落とす。

「いかに張良、あの靴取って履かせよ」
と言われて張良はしぶしぶ靴を拾って履かせる。
また別の日に路上で出会う。
今度は両足の靴をばらばらと落とす。

「取って履かせよ」と言われて、張良またもむっとするのですが、
靴を拾って履かせた瞬間に「心解けて」兵法奥義を会得する、
というお話です。
それだけ。不思議な話です。

(中略)

教訓を一言で言えば、師が弟子に教えるのは
×「コンテンツ」ではなくて
◎「マナー」だということです。

張良は黄石公に二度会います。
黄石公は一度目は左の靴を落とし、
二度目は両方の靴を落とす。
そのとき、張良はこれを「メッセージ」だと考えました。

(中略)

「靴を落とすことによって、黄石公は私に何を伝えようとしているのか。」
張良はこう問いを立てました。
「その瞬間に」太公望の兵法極意は会得された。
瞬間的に会得できたということは、
「兵法極意」とは修行を重ねてこつこつと習得する類の
実体的な技術や知見ではないということです。

兵法奥義とは「あなたはそうすることによって私に何を伝えようとしているのか」と
師に向かって問うことそれ自体であった。
「『兵法極意』とは学ぶ構えのこと」である。

(中略)

弟子が師に向かって
「先生、毎日便所掃除とか、廊下の拭き掃除とかばかりで、飽きちゃいましたよ。
いつになったらぼくに極意を教えてくれるんですか。ねえ、先生ってば」
というような催促をすることは許されません。(ふつう、そんなこと行ったら即破門)

というのは、師弟関係を起動させるために、師はできる限り弟子から見て、
無意味と思える仕事をさせるに決まっているからです。

(中略)

師はなにも教えない。
少なくとも弟子の目に「意味がある」と思うことはなにも教えない。(靴を落とすぐらいで)
しかし、師は澄まして「これが修行である」と言い張る。弟子は困惑します。

困惑のあげくに、
「先生が私に無意味なことばかりさせるはずがない。
ということは、私は意味のあることをしているのだ。つまり、先生はあまりに偉大なので、
そのふるまいが深遠すぎて、私には『意味』として察知されないだけである」

(中略)

「私はなぜ、何を、どのように学ぶのかを今ここでは言うことができない。
そして、それを言うことができないという事実こそ、
私が学ばなければならない当の理由なのである」、
これが学びの信仰告白の基本文型です。

「学ぶ」とは何よりもまずその誓言をなすことです。
そして、この誓言を口にした時、人は「学び方」を学んだことになります。

ひとたび学び方を学んだ者は、それから後、
どのような経験からも、どのような出会いからも、
どのような人物のどのような言動からも、
豊かな知見を引き出すことができます。

賢者有徳(けんじゃうとく)の人からはもちろん、
愚者からも悪人からも、
それぞれに豊かな『人間的知見』を汲み出すことができる。

==========
<引用ここまで>

ホリエモンの言う通り、
効率的にやれば、
寿司を握る技術は半年で身につくでしょう。

それで十分、おいしいお寿司を握ることができる。

ホリエモンが見落としているのは、
寿司屋を、寿司屋たらしめているのは、

×「おいしいお寿司を握る技術(=コンテンツ)」ではなく、

◎「その世界観」だと言う点です。

師弟関係という「マナー」こそが、
『何年もの修行を通して、
師が、弟子に教えていること』
なわけです。

そして、そこで培われた関係性、
『職人さんに対する、リスペクト』こそが、

ボクらをカウンターのお寿司屋さんに運ばせる、
価値の源泉になっていると思うのです。
職人
だから、ホリエモンの意見には、
手放しで賛同できないな、というお話でした。( ´ ▽ ` )ノ

それでは。

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